南風の仕事

「染色家 山下南風」

1947年、創作活動を開始。
1951年、西山にアトリエを構え、ここで最初に染めた「出島おらんだ屋敷屏風」の出来に
長崎の水と染めの親和性に確信を持つ。
1961年、昭和天皇長崎行幸の折に、長崎県から献上する行幸アルバムの皮染表紙を担当。
1964年、オランダから国賓として来日、長崎入りしたベアトリックス王女に「洋風二曲屏風」を献上。
長崎県を代表する染色家として名を知らしめる。

「型染作家 山下南風」

1969年、「南風工芸ギャラリー」という工芸を志す作家たちに無料で開放するスペースを自宅の2階につくる。
この頃から「型染」と呼ばれる新しい創作方法に意欲を燃やし、この新しいスタイルで作られた作品は1970年4月、浜屋デパート3階で行われた「南蛮美術の染色展」で披露される。
この模様を取材した新聞記者は「綿密なつなぎの手法と型絵独自の白地を生かした美しさには日本画の余白の美に通じるものがあり、新鮮かつ自由な風を画面に送り込むとともに山下南風の仕事の新しい発展を予感させる(長崎新聞1970.4.28)」と高く評価される。

「切り絵作家 山下南風」

1971年、長崎に渡来した数々の西洋文化の起源を確かめるべく渡欧。
パリに立ち寄った際、フランス人には「柿渋紙で型紙を作って手染めする」という手法が理解してもらえず、最後にはその場で型紙を切って実演までする。彼らが想像していたのは、1960年代にアンディ・ウォーホルによって流行した写真製版によるシルクスクリーン印刷だった。
ようやくフランス人の理解・納得を得て、「型紙」という日本の伝統技術に自信を深め、さらに技を追求する。
約半年がかりでオランダ・イタリア・スペイン・ポルトガル・フランスの美術品を観て回り、長崎文化の持つ独自性を再発見できたことは大きな収穫となる。
そして帰国後「型紙」そのものが作品である「切り絵」の製作に挑む。
南風の作品は古い長崎の良き時代を彷彿させるもので、南山手一帯の洋館や教会などの切り絵染めが多くあり、きりりとした黒い線が爽やかであり、一方で南蛮風俗の切り絵染めは大きくふくれたズボンや長い女性の顔、異人の異常に高い帽子などデフォルメされた楽しい作品もある。

「“長崎らしさ”の伝承者 山下南風」

失われてしまった1935年前後の長崎の風景を記憶だけでなく、古写真や取材まで行い次々に切り絵で作品化、都市計画に対し問題提起を行う。
急速に都市化する長崎。昭和初期の「長崎らしさ」が姿を変え消えていくことに大きな危機感を覚え、
1975年2月に鍛冶屋町の光風堂画廊でおこなった「山下南風 切り絵展」では「花街丸山界隈」「モダンガールがさっそうと歩く思案橋」「市営交通船」「大浦の長崎ホテル」「夏の大波止桟橋」「秋の浜町本通」「電気館」といった長崎の風景を描き、「昭和初期の長崎シリーズ」は生涯にわたる制作活動のひとつとなる。

「合羽版画家 山下南風」

1976年10月、浜町タケシタ画廊で行われた「山下南風 切り絵色紙展〝長崎の祭〟」では「精霊流し」「くんち」などの作品を制作した。
これらの作品では新たな手法がとられ、従来の一つの型紙を使い黒で摺ったものに筆を使って色を着けていくという版画と絵画が混ざったものではなく、今回は色の分だけ版をつくる純粋な「版画」の手法をとる。
「版画」の手法は、版を増やすことで線を減らしシンプルで柔らかな表現を可能にする。

「長崎を想う」

南風は自分のスタイルを持ち、探究心に満ち溢れ、常に変化し続ける芸術家。
また芸術家としてだけでなく、切り絵作家・愛好者たちが集まって結成された「日本きり絵協会」の常任委員をつとめ、
長崎市民美術展、長崎県民美術展の審査員をつとめるなど地域の美術振興にも尽力する。
 
南風が手がけた作品の背後には、時代時代のいろんな人たちの思い出が詰まっている。
それぞれの時代の人が、思い思いの方法で「長崎らしさ」を残すことができれば、
それが「誰かの心のよりどころ」になると考え、南風は長崎をテーマに多くの作品を生み続けた。